credit:すい子様

 夏の夕方とはとても幻想的で、それでいて少し寂しくもなる。花影こころは朱とも潤朱ともとれる西の空のなか、でこぼこの建物へゆっくりゆっくり落下していく太陽を見つめていた。
 こころが本日受ける予定であった授業はすべて終わり、しかし用事は残っているのでまだしばらくのあいだ帰路につくわけにはいかなかった。さっさと済ませてしまおうと汗ばむ肌を不快に思いながら図書館へ向かう。ぬるい風はゆるゆると流れ、たまに停滞しながらこころのスカートを撫でていった。
 図書館の自動扉が開くと冷たすぎる空気が体を包んだ。入場のゲートに学生証をかざす。至極あたりまえのことであるが図書館は貯蔵するほどんどのものが紙なので、適切な保存のため温度や湿度に厳しい。加えて人が長時間座って作業をする場でもあるためそちらにも気を遣わなければならない。外気温との差で風邪をひいてしまうのではないかと思うほどだったが、しばらくすれば居心地がよくなった様子でこころは目的の本を探し始めた。それはレポートで使用するための本で、だいたいの目星をつけていた本棚まで一直線に歩く。低いヒールが響かせるはずの音は絨毯に吸い込まれてしぼんだ。
 本棚の前をうろうろ、たまに背伸びをしつつ人差し指で背表紙をなぞりながらパントマイムのように横移動をする。
「……あ、った」
 声になったかも怪しい音でつぶやき一冊の本を抜き取った。表紙を見て満足げに微笑む。少し分厚めのそれを片手に抱えて本棚から顔を出し一歩踏み出した瞬間、視界の隅に見慣れた金髪があることに気づいた。
 こころの同級生の、日和爽真であった。
 彼は自習スペースの隅っこで二冊ほどの本を開き、熱心に調べものをしているらしくこころの存在にまったく気がつかないでいる。それはこころのほうに背中を向けているからでもあるのだが、それでも爽真は気配を察知してこころを見つけるのが常で、じいっと見つめても見向きもしないということはそれほど集中しているのであろう。こころは一歩、また一歩と自習スペースに近づく。金髪の隙間からちらっとその目が見えた。いつもやさしげでこころを見つけたときには泳いだりもする目が、今は真剣に本とにらめっこ中だ。声をかけては迷惑だろうと、こころは唇をきゅっと閉じて貸し出しカウンターへ向かった。
 図書館内は本が日焼けしてしまうため基本的に陽が当たらない。けれど本に影響を与えない場所にはきちんと窓があるし、ブラインドカーテンが設置されている。西日がきつくなるこの時間は窓の上半分をブラインドカーテンが占めているが、目が痛くなるほど鮮やかな朱色は狭まった窓から激しく主張をする。なにがそうさせるのか、無性にもの寂しくなったこころは司書から本を受け取るや否や来た道を戻っていた。

 爽真とは入学式で出会った。知り合いではないが友だちと呼ぶにも少し距離があるような、そんな関係であった。度々彼を見かけている友人たちからは「顔がカッコイイ」という黄色い声から「体つきががっしりしていて少し怖い」というか細い声まで聞こえてくる。こころはと言うと、単純に顔がカッコイイという意見に同意だった。それになんといっても彼はこころを前にするとどうしても赤面してしまうらしく、見かけによらない頼りない喋り方をする。それがこころには好印象だった。
 いつの間にか自習スペースの隅にたどり着いていたこころはできるだけ爽真を驚かせないよう、背後で首を捻った。いまだ本と向き合い難しい顔をしている爽真の、横顔をゆっくり覗き込んだ。
「日和くん」
 囁くように呼んだ。爽真はわかりやすく肩を跳ねさせ椅子から転げ落ちんばかりの勢いで立ち上がる。本が机の上を滑った。
「はっ花影さん……!?」
 爽真はフロアに裏返った声を響かせながら、落ちかけた本に咄嗟に手を伸ばし事なきを得た。と思われたが周りの自習中または読書中の数人がじっとふたりを見ている。こころと爽真はぺこぺこと頭を下げて小さくすみませんを連呼した。
 各々が作業に戻り、ふたりは息をついて向き直った。
「日和くん、ごめんね。急に声かけちゃって……」
「あっ、や、俺も、大きい声出してごめん……」
 なんとも言えない空気があたりに漂う。なにか話そうにもここは図書館で、しかも自習スペースだ。もちろん無意味な私語は厳禁だしもう図書館に用がないこころが居座る意味もない。なにか、なにかきっかけを、つくらないと。こころは垂れた眉をさらに下げて、必死に考える。そんな彼女よりも頭が真っ白なのは爽真であるが。
「あ、あの、は、花影さん。花影さんも、その、調べもの……?」
 汗を握りしめた両手を震わせつつもこころと偶然出会えた喜びからか爽真の口角は上がっていた。はたから見ればそれは不気味に、不快に。
 しかし健気なこころは意にも介さず首を縦に振りまくる。
「そう、そうなの。レポートで使う本があってね、それを借りに来たの」
 慌てて先ほど借りたばかりの本を爽真に突きつけた。
「日和くんはなにを調べてたの?」
「ええと……さっきの授業の、わからなかったところ、を、」
 教授に聞きそびれたから自分で調べていたのだと、爽真は呟くように言う。目は泳ぎつつも開かれたままの本に落ちた。学部が違うのでこころが彼に教えてあげられることはない。それが少々もどかしかった。
 軽く目を伏せてしまったこころを見てからおもむろに見上げた時計の長針がすでに6を指していたので、反射的に口を開いた。
「あ、あの花影さん、もう6時だよ。すぐ暗くなる、から。か、帰ったほうが……」
「えっもうそんな時間?でも、夏だからだいじょうぶだよ」
「でっでもっ」
 譲ろうとしない爽真に、こころは一歩踏み出した。
「あっじゃあ、いっしょに帰ろうよ」
 なんともわかりやすく、そして見て取れるほどに動揺する爽真に、こころはやさしく微笑みかける。
「ね、だったらいいでしょ」
 最後の一押しとでも言うように上目遣いで見上げて小首を傾げてみせた。
 いま、ここで鼻血を出すわけにはいかないと爽真は思った。図書館で、しかも机には本が広げられている。血が飛んでしまうことだけは避けなければならない。萎えることを考えようと思考を巡らせるが少し視線を下に落とすとこちらを見上げているのは無垢でまるい大きな瞳。目が、頭がぐるぐる回る。そうして口から出たのは力のない言葉だった。
「う……ん、じゃあ、い、いっしょに、帰ろ……」
 こころは感じていたもの寂しさを晴らすみたいに目を細めた。
「ありがとう」
 ああ、こんなことが起こるなんて。爽真は神に感謝するべく天井を仰いで唇を結んだ。大人しく本をもとあった場所へ返して、並んで歩く。暴れる心臓は気を抜けば口から飛び出しそうだった。そんな爽真のことは露知らず、こころは満足げに出口専用のゲートを過ぎた。

 冷えた体に生ぬるい空気は気持ちがいい。薄いヴェールみたいなもので体が包まれる感覚だった。ふたりとも口が綻んだ。そのまま一切の言葉を交わさず大学の敷地を出て、どちらともが話し出すタイミングを探っていると歩道の端で黒い猫が一匹、自らの体を毛づくろいしているのを見た。
「ねこちゃん!」
 先に口を開いたのはこころだった。無邪気な声を上げて、でも逃げ出したりしないよう無暗に近づくことはしない。彼女は聡明なのだ。
 猫に目を奪われた足元がいささか不用心になるため、爽真は注意深くこころの歩く先も見た。
「わ~、黒ねこ見ちゃった。縁起いいね!」
 夏の太陽にも負けない勢いで花を咲かせるみたいにそう言う。黒猫は見ると縁起が悪いとか良いとか言うけれども、こういうことがすっと言える彼女はやっぱり素敵だ。
「そ、そうだね……い、いいこと、あるかもしれない、ね」
 うん、緑青色の髪を揺らして彼女は笑う。爽真は心が浄化される気すらした。
「日和くんは、ねこちゃんって言うよりわんちゃん……」
 話しかけてきたと思えば突然悩みだしたとなりを歩く小さなこころを横目で見ながら口元から垂れるよだれを拭った。かわいい、かわいい。真剣な顔つきでひとりの世界に入ってしまう彼女が、かわいい。
  一方で規則正しく足を踏み出しながらこころは考える。猫な気がしたけれど、よく考えたら犬かも。でも、声をかけて驚くときなんて猫そっくり。やっぱり爽真くんは猫かなぁ。私を見つけたときはふりふりする尻尾が見えるけれど……爽真くんは、爽真くんは、
「爽真くんはやっぱりねこちゃん!」
 びしっと人差し指を立てて爽真に振り返る。
「……え゛っ」
 その濁った声が意味するのがなんなのか、こころはしばしわからなかった。ぴんときた瞬間彼女は顔を真っ赤にして両のてのひらを爽真に向ける。
「あっ日和くん、は……」
 ずっと爽真くんと呼んでいたのは彼女の心の中でだけで、それを表に出したことはなかったのに、つい出てしまったのだ。しかし今さら取り繕っても遅い。爽真は確かに聞いた。なんなら頭のレコーダーに録音していた。さっそく黒猫のご利益があったのだ。
「あ、え、っと、あの、花影さ……」
 このチャンスを逃してはならないと黒猫が言っている気がした。このまま今の出来事がうやむやにされては金輪際下の名前を呼んでもらえる機会がないかもしれない。隠したい焦りもすべて全面に出しながら吹き出す汗を抑えるように声を張った。
「こっ、ころちゃんっ……!」
 眉を寄せてぎゅっと目を閉じ思ったよりも声量が出たことに驚きながら肩を跳ねさせた。おそるおそる開けた目の先で、こころは口を開けて目を輝かさせている。
「えへへ……爽真くん」
 浮かれ気味にはにかむこころは幼い子どもみたいだった。好き勝手暴れていた爽真の心臓はきゅうと小さくなって心地いい鼓動を奏でている。ついに鼻血が出そうになるが、きっとそれもこころが慣れた手つきで拭くのであろう。

 沈んでいく太陽がふたりを照らすなか、さっきの黒猫はただじいっとふたつの影を見つめていた。
 こころは何度も爽真の名前を呼んだ。爽真くんは、爽真くんも、爽真くんが。飽きずに何度も、口遊むみたいに。そのたび爽真の心臓はゆるやかに楽しげに跳ねまわった。それからうん、うん、と頷いた。
 こころを家まで送り届け自宅のマンションへ戻る道中、思い出すとにやける口元を袖でおさえて朱色から深い紫へ姿を変える空を仰ぐ。東のほうはすでに星がちらちらと弱く光っている。
 肌寒さとは程遠い夏の夕暮れ遅く、こころと別れたことで押し寄せるもの寂しさを余所に幻想的な色に染まる帰路をひとり歩いた。